相撲節合

日本の伝統文化といわれる相撲は 『古事記』などの文献によると「国譲り」の力くらべに始まり、「日本書紀」には垂仁天皇の7年7月、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の決闘などが神話相撲として伝えられている。いずにしても日本人の農耕生活と深い関わり合いがあり、神社信仰を中心にした神事相撲が次第に発 展して国の繁栄を願う国家的な事業になっている。
「相撲節会(すまいのせち)」は「相撲節」ともいわれ、奈良・平安には宮中の三度節(さんどせつ)の一つとして大事な行事で、五穀豊穣を祈るとともに、全国からたくましい健児(こんでい)を集め、全国的な相撲競技会と儀式を兼ねたものであった。
ここに至るまでの経過としては皇極(こうぎょく)天皇元年(642)7月に百済の使者をもてなすため、宮廷の衛士を集めて相撲大会を開き、天武天皇の11年(682)には薩摩、日向の隼人の対抗相撲があり、相撲機運が次第に高まるにつれ、選手を集める組織も整備され、聖武天皇の神亀5年(728)には、全国の郡司して相撲人(すまいびと)を召し出す命令が出ている。
激しいスカウト合戦も
相撲節は大会の2、3か月前になると、左近衛府と右近衛府から部領使(ことりつかい)を全国に派遣して優れた相撲人を探し求め、時には激しいスカウト合戦が繰り広げられた。 相撲節は天皇が宮廷で貴族や臣下を招いて相撲をご覧になる壮大な儀式であった。大会(「召合(めしあわせ)」という儀式)は1日だけで、相撲場となる紫宸殿などでは一面に砂を敷きつめ、幕を張りめぐらし、楽人(らくびと)が音楽を演奏したあと、相撲人四十人をはじめ関係者三百数十人が隊列を組んで入場、盛大な宮廷絵巻が繰り広げられた。

相撲節の運営進行の係員は大会の1か月前に任命され、いずれも皇族、 貴族などの五位以上の高官24人が選ばれ、右府の相撲司(総監督) には親王が任命されるのがしきたりであった。ただ、歌人として有名な存原業平が天長4年(827)に右相撲司に任命されたこともあった。 五位の役人は雑務に当たり、見物は 許されなかった。
物言いの最後は天皇が判定
相模節の召合の前には「召仰(めしおおせ)」の儀式があって大会の準備が進められ、召合の当日に備えて相撲人が本格的にけいこする「内取(うちとり)」という儀式があり、また番付に相当するランク付が、首脳陣によって行われ、その年の最強最手、二番手の脇を選出、出場する相撲人の名簿が初期には二十番、後に十七番の順列でつくられ、天皇に拝謁の機会もあった。 相撲召合の儀式は広い紫宸殿の中央で行われ、相手を投げ倒し、突き倒すか、手かヒザをつかせるのが主な決まり手で、外掛け、内掛け、小手投げも通用していた。 勝負が終わるごとに勝ち力士に舞楽が演奏され、勝ち方には地上に矢が立てられた。取り組が終わると、この矢の数で勝敗が決まるごく分か りやすいやり方だった。
勝敗は左右に控える近衛の次将が、勝ち方を決めていたが、同体や微妙な勝負のときは、次将がそれ ぞれの意見を「出居(いでい)」に申し立てることになっていた。この物言いを「論」と言い、出居はこうした判定 を専門に扱う役割だった。
それでも判定が決まらないときは次将、ここでもまとまらないと、公卿に意見を求め、最終的には天皇の判定を仰ぎ、この最終決定を「天判(てんばん)」といって誰も言い返すことはできないことになっていた。 相撲召合の出場者は左右に分かれ、 左近衛府側は造花で作った葵を髪に挿し、右近衛府側は瓠(ゆうがわ)の造花を挿し、 勝った方は花を次に引き継ぎ、負けた方は新しい花をつけて出ていた。
相撲召合の翌日には「抜出(ぬきで)」とい う選抜戦、お好みの追相撲なども催されていた。抜出は前日の召合で善戦した者、勝ち負けがつかなかった相撲人が選ばれていた。
聖武天皇の天平6年(734)始まった華やかな宮廷絵巻「相撲節会」は、高倉天皇の承安4年(1174)を最後として340年の幕が閉じられた。

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