武家相撲~江戶時代

武士の天下になると、相撲は戦場 における組み打ちのための実践的な 訓練として重要視され、ヒザをついて相手を反り倒す技なども考案されている。 源頼朝は鎌倉幕府創立後の文治5年(1189)鎌倉八幡宮の祭事に流鏑馬(やぶさめ)、競馬(くらべうま)とともに相撲を奉納した。
それ以前の安元2年(1176) には相撲史上でも名高い瀬津三郎と俣野(またの)五郎の取組が伊豆の柏峠で行われ、この一戦が遺恨相撲となり、賞我兄弟の仇討ち物語に発展 している。
相撲が盛んになるにつれ、庶民の間でも人気になり、鎌倉の町中で辻相撲が行われ、昼夜を問わず開かれ、 紛争や騒動が多かった。幕府は建永元年(1209)源実朝の家臣結城朝光を相撲奉行に命じ、暗に辻相撲の取り締まりに当たらせている。
織田信長も相撲への関心が強 た。元亀元年(1570)に 海国の常楽寺に力士を集めて相様 の大会をしばしば開き、天正六年(一五七八)には安土城内で京都の 力士をはじめ全国から武士や若者を 集めて盛大に行い、実戦向きの鴨の入れ首、水車、反り技などが考案さ れている。 土俵も織田信長の時代に出来たといわれ、相撲強弱理ェ』(行司木村孫六著)によれば「土俵を築くこ と天正年中より始まり、慶長に到り て諸国一同髪を定む。基より以前に魔界なし古例は勝負の場所、五六 間を明け、共余に東西に分け並居た かたやり、往古相撲節会の式法は片屋より 出で、幕門より出入す」(後略)と信長の時代に決まり手考案

信長の時代に決まり手考案
織田信長も相撲ヘの関心が強かった。元亀元年(1570)には近江国の常楽寺に力士を集めて相撲の大会をしぱしぱ開き、天正6年(1578)には安土城内で京都の力士をはじめ全国から武士や若者を集めて盛大に行い、実戦向きの鴨の入れ首、水車、反り技などが考案されている。
土俵も織田信長の時代に出来たといわれ、「相撲強弱理合書」(行司木村孫六著)によれぱ「土俵を築くこと天正年中より始まり、慶長に到りて諸国一同之を定む。其より以前に境界なし、古例は勝負の場所、五六間(ごろくけん)を明け、其余に東西に分け並居たり、往古相撲節会の式法は片屋より出で、幕門より出入す」(後略)と記述されている。
現在実施されている弓取り式も信長時代の元亀元年(1570)、信長が勝ち力士の宮居眼左衛門(みやいがんざえもん)に秘蔵の重藤の弓を与えたことが弓取り式の始まりだという説がある。豊臣の時代には『武将感状記』によると、二代目の関白秀次が相撲奉行を置いて多くの力士を抱え、洛中、洛外をはじめ各地から2、300人の力士を集め、東西に分けて対抗試合を行ったという。
戦国時代が終わって徳川幕府の基礎が固まるにつれて、浪人の集団が各地で神社、仏閣をはじめ橋の修復などを目的とした勤進(かんじん)相撲を行うようになった。
職業力士が現れる
ところが、次第に最初の目的から逸脱、営利日的の職業集団に変質、 江戸、大坂、京都で盛んに興行が開催されるようになった。江戸では寛永元年(1624)明有志賀之助が四谷塩町の笹寺境内で 晴天六日間の興行をしたのが勧進相撲の最初で、京都では山城国愛宕郡田中村の干菜山光福寺住職が寺内の八幡宮の再建のために勧進相撲を出願、正保2年(1645)6月、京都市左京区継の森で十日間、大坂では元禄15年(1702)南堀江高橋屋橋筋立花通で興行したのが最初とされている。 勧進相撲が盛んに行われるようになっても、統一された組織や団体がなく、江戸市内では辻相撲や野相撲がはびこり、浪人、使客も紛れ込み、喧嘩や刃物沙汰が絶えず、市民生活が脅かされた。
幕府ではこれを重く見て慶安元年 (1648)に勧進相撲、辻相撲の 禁止令を出し、慶安四年には由井正 雪が幕府転覆の陰謀を図り、幕府はますます神経質になり、相撲の暗黒 時代が30年も続いたのである。
このため関係者は再三、勧進相撲 の再開を願い出て、許可になったのは貞享元年(1684)の正月、寺社奉行の本多淡路守から深川八幡の境内で晴天八日間の興行が許可され、勧進相撲はようやく軌道に乗りはじめた。
年寄と相撲部屋
勧進相撲が公許された貞享元年には雷権太夫以下14人が株仲間を組織。その統一団体に興行権が与えられ、個々の年寄は部屋の経営、弟子の養成に当たった。

土俵も人方屋(ひとがたや)といって相撲場の周りを観客が囲み、人垣の中へ相手を 押し倒せば勝ちという単純なものから観客本位に改良された。
競技化が進んだ寛文年間(1661~73)になると、四本柱を建て、 社と柱を結んだ線が土俵として登場、17世紀の後半には、五斗俵を並べて勝負の境界線が設けられ、その後、俵は細くなり13尺(3.94 m)の丸い、二重土俵が確定している。 京坂や江戸には相撲会所(現在の 相撲協会の前身)が設立され、寛政元年(1789)には谷風梶之助と小野川喜三郎が吉田司家から横綱を免許され、この両力士の取組で空前の人気を呼び、史上最強といわれる雷電為右衛門の登場で拍車がかかり、黄金時代を迎えた。
寛政3年(1791)から嘉永2年(1849)の間には江戸城吹上で6回、浜御殿で1回の上覧相撲(十一代将軍家斉(いえなり)、十二代特軍家慶) が開催され、春、秋、二回の興行は、 江戸庶民にとっては欠かせない娯楽 となった。興行は深川八幡のほか蔵前八幡、芝神明、神田明神の境内でも開かれ、 従来の八日間が晴天十日間に延長されている。 天保4年(1833)10月には両国回向院(えこういん)が定打ちの興行場となり。 明治40年まで、74年間、小屋掛け興行が続けられた。相撲会所では上覧相撲のたびに、新横綱を誕生 させたともいわれ、幕末まで九人の横綱が出ている。勧進相撲時代の大きな特徴は、諸国の大名が競って有力力士を自分の藩のお抱え力士にしたことだろう。 参勤交代のときにはお供の一員に加え、江戸藩邸には土俵を設けるなどの熱の入れようだった。 ちなみに谷風は奥州仙台藩伊達家の支藩白石・片倉家、小野川は筑後久留米藩有馬家、雷電注雲州松江藩松平家に仕えていた。

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