明治時代~大正時代

明治維新による廃藩置県は、大名のお抱え力士に頼ってきた角界に大きな打撃を与えた。文明開化の波も逆風となり「相撲は野蛮な競技」という禁止の声も上がり、市民の相撲熱も冷え、低迷期を迎えた。
東京大角力協会の設立
明治4年には散髪脱刀令が施行され、力士のシンボルである髷(まげ)が消える危機にも見舞われ、相撲界への強い風辺りをやわらげようと、社会貢献のため力士による「消防別手組」を組織して存在をアピールする苦肉の策に走る動きもあった。
相撲会所の内部からも明治6年に は初代高砂浦五郎が改革を訴えて除名される騒ぎがあり、復帰後の高砂は相撲会所の実権を握り、明治22年、相撲会所を「東京大角力(ずもう)協会」と改称、組織、制度を整備して年寄の数を88名に限定した。 どん底にあった相撲界のカンフル剤となったのは、大相撲に強い関心を示されていた明治天皇の天覧相撲であった。 明治天皇一代で8回を数えた。なかでも17年3月10日の芝・延遊館(えんりょうかん)での 天覧相撲は内外の高官を招き、希に見る盛儀であったとのことである。相撲廃止論がうずまく中、懸命に屋台骨を支えた初代梅ヶ谷藤太郎(とうたろう)が18年に引退、次の横綱の西ノ海嘉次郎(かじろう)のとき、23年5月「横綱」の二文字が初めて番付に登場している。
相撲人気も徐々に回復、27、8年の日清戦争、37、8年の日露戦争の勝利によって、相撲界は復興の波に乗った。
殿堂国技館の開館
複興の波に乗った大相撲は二代日梅ヶ谷藤太郎・常陸山谷右衛門の出現で、両雄相譲らぬ” 梅・常陸”の黄金時代を迎えた。
常陸山は相撲に強いばかりでなく、力士の地位向上に力を入れ、場所入りに当たって紋付、袴(はかま)の着用、場所での投げ祝儀(はな)として衣類などの投げ入れを禁止した。
常陸山自身も40年には力士としては初めて渡米、ホワイトハウスでルーズベルト大統領と会見、大統領の前で土俵入りを披露し、日本文化を海外にも紹介した。

梅・常陸人気で財政的も豊かになった大相撲は、屋根付きの屋内競技場建設を両国の回向院境内に計画、42年6月、両国国技館が開館、江戸時代から続いた晴天十日間の興行が、晴雨にかかわらず十日間興行に改められた。 開館式当日は閑院宮(かんいんのみや)などの宮家を はじめ内外の名士が参列、東洋一を誇る大鉄傘(だいてっさん)を埋め尽くし、常陸山、 梅ヶ谷の三段構えも披露された。
これによって常設興行が可能になった大相撲は、収容人員も従来の 2000人前後から1万2千人と大幅に増加、一般の市民にも見物の自由化が促進され、両国国技館は大相撲の メッカといわれるようになった。 番付面でもこれまで「横綱」は強豪大関の称号に過ぎなかったが、大関の上の地位であることが明文化され、個人優勝に懸賞優勝額を始め、東西対抗の優勝制度を定め、優勝旗も作られた。
そして脇役の行事にも改革の手が伸び、43年には行司の装束が裃(かみしも)姿から烏帽子(えぼし)と直垂(ひたたれ)に改められている。新装なった国技館では場内に売店が設けられ、いっさいの物売りが禁じられた。
大正期は豪快な太刀山、ハズ押しの名人栃木山が人気を支え、関東大震災で本場所は名古屋が代替、14年には摂政宮(せっしょうのみや)殿下の台覧相撲の御下賜金で摂政宮賜歪(後の天皇賜杯) を作成して東西両協会合併の呼び水となり、12月には財団法人として文部省から認可された。

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