昭和時代

天皇賜杯が優勝力士に授与されることが決まり、これを東京で独占するのは恐れ多いと、不調にあえいでいた大阪相撲を昭和2年1月に合併、「財固法人·大日本相撲協舍」 と正式に名称を改めた。 これを機会に関西本場所を春秋二回行うようになり年間4場所、フア ンサービスのため、ラジオの実況放 送に踏み切り、仕切り時間も幕内10分、十両7分、幕下以下5分とし、仕切り線も設けられた。中でも画期的だったのは6年4月の天覧相撲を機に土俵の直径を十三尺(3.94m)から十五尺(455m)に、二重土俵を一重に改め、土 俵の屋根を神明造りに改めたことだった。土俵を拡大することによって、相撲の技にも変化が現れ、動きの激しい攻防が助長される動きが見え始めた。
空前の相撲景気
天皇賜杯という錦の御旗を押し立て、不況を乗り越えようとした矢先に起こったのが、相撲道の改革を訴えた春秋園事件。7年1月、春場所を直前にして天竜を首謀者に多くの
力士が協会を脱退、一時は大混乱となったが、下位から十両、幕内に抜擢してしのいだ。
そのとき、十両から幕内に抜擢された一人が双葉山だった。双葉山は11年5月場所3日目、瓊ノ浦戰から14年4日目の安芸ノ海に敗れるまで前人未到の69連勝を記録、 昭和の黄金時代を迎えた。 双葉山の連勝は、日中戦争の拡大と重なって空前の相撲景気をもたらした。 大相撲の興行日数は12年5月に 13日制、14年5月に15日制に移行した。 しかし、戦争の激化によって国技館が軍部に接収され、風船爆弾の工場に転用されたため、後楽園球場で本場所が開かれた。20年3月10日の東京大空襲で国技館が炎上、相撲部屋の大半は焼け出され、現役力士の中にも死亡者が出た。辛くも同年夏場所は戦災を受けた国技館で7日間の非公開で開かれ、平幕筆頭の備州山が全勝優勝した。
そして8月15日。日本の敗戦で戦争の時代は終わった。

焦土からの復興
空襲で被災した両国の国技館で20年11月に10日間、その後ァメリカ軍に接収されてメモリアルホールと改称された旧国技館をから借り受けて21年11月に13日間の興行が行われた。戦後三場所日以降、本拠地を失った大相撲は明治神宮外苑、浜町公園とジプシー興行を続け、25年1月になって蔵前仮設国技館で15日間の興行を行って安住の地を得た。 しかし、二十五年春場所には横綱 陣の不振から同年五月にお日付け役 の横綱審議委員会が設けられた。 27年には四本柱が廃止され代 わりに四房がつるされ、28年には3月の大阪場所を含めて4場所制 となり、29年5月に蔵前国技館の工事が完成、18年ぶり30年5月に昭和天皇の天覧相撲が行われた。改革が進められる一方、財団法人 としての相撲協会の在り方に批判の目が向けられ、32年には協会幹部が国会に喚問された。
これを受けて協会は力士の月給制をはじめ改革を急ぎ、33年には”大”を取り「財団法人・日本相撲協会」と改称した。 戦後の土俵は軽量の「栃若(とちわか)時代」 に移り、35年からは一転して 「柏鵬(はくほう)時代」、剛の柏戸、柔の大鵬の対戦が人気を呼んだ。40年には部屋別総当たり制が実現、フアン待望の好取組が見られるようになった。 北玉時代は玉の海の急死で短命に終わった。しかし、その後、怪童北の湖の最年少横綱、学生出身で輪島が初の横綱昇進、”ウルフ”の異名のあった千代の富士の53連勝と 人気に事欠かず、若貴時代にとスムーズに受け継がれた。 その間、60年には新国技館が両国に完成、兄の三代目若乃花と弟の二代目貴乃花の人気はすさまじく、ブームを巻き起こし、兄弟横綱の実現で頂点に達する。